まるちゃんラーメンを食う
昼メシがない。
棚を探ったらラーメンがあった。
まるちゃんラーメン
スープの素を入れて待機
お湯をいれます
まぁ浸かってりゃいいでしょう
はよ茹で上がれ〜
まだかな
完成
なかなかうまいッス🍜
たまにはインスタントラーメンもええな〜
完食〜
そろそろ出かけよーっと
表現するということ
毎日の生活の中で、表現するということはほとんどないかも知れない。
現代の生活は、ほとんどマネーで買えるもので成り立っているし、仕事も大きな世の中の流れのイチブを担う会社の、イチブの役割を果たしているだけに過ぎない。
なので、現代人はなんだかボンヤリ過ごしていると思う。
岡本太郎によると、アート、表現することは現代人にとって人間の全体性を取り戻し、活力を得るためには必要なことであるらしい。
自分を全く表現せず、世の中のイチブに収まるということは、何か部品になったような感じがする。
生活していて、なにか意見を求められることは少ないし、意見を言う場というのも少なくなっているので、何かしら自分で表現する場やものを作っていかないといけない。
酒本人生訓 〜ひとつずつしか進めない〜
老若男女問わず、皆さんにお伝えしたい人生訓がある。
それは「何事も一つずつしか進めない」ということである。
これはもう、絶対的な真実だと思う。
一つ飛ばしで次の場所に行くということは出来ないよーにできている。
敢えていうなら一つ飛ばしが効くのは、一回が限度だ。
それもかなりの痛みを伴うし、リスクもある。
恋愛にしても、受験にしても、仕事にしても、確実に目の前の1ステップを積み上げていくことが大事だ。
逆に言えば、それを徹底できれば、誰でも相当高いレベルまで達することが出来るし、一流になれるし、うまくいく可能性、成功の可能性が格段に高まる。
なのに、なぜ私も含め一流に到達する人や、望んだことを達成する人が少ないのだろうか⁈
自身のイタイ経験を踏まえて言うと、やはり成功と呼べるところまで到達出来ないのは、遠くを見すぎて、目の前の1を積み重ねる作業を怠った結果である。
遠くのものには憧れるくせに、目の前の1ステップを踏むことを軽んじ過ぎているのだ。
遠くのもの(はるか先のステップの結果)価値を置くから、1ステップ先の結果の価値を軽くみすぎて、1ステップ踏むモチベーションが薄い。
すぐ出来るのに、たいしたことないやん、とかいつでも出来る、すぐ出来る、と考えて先延ばしにしてしまう。
他のケースもある。
一般的に誰でも簡単に出来るはずの1ステップが、自分はなかなか乗り越えられない場合などだ。
この場合、一般的にはあまり意識されないところで躓いているので、何が原因で進めないのかが良く理解できない。
本を読んでも、人に聞いても、躓くようなところではないので大した説明もなく「なぜかうまくいかない…」という感じで、課題が見えなくなってしまう。
このケースは少し厄介で、ステップが見えないのでやりようがなくなってしまう。
スランプ、と呼んでもいいが、このケースでも「1つずつしか進めない」という意識があれば、直接繋がらなくても何かしら1ステップを踏んでいくことが出来る。
人に聞く、とにかくネットで検索する、気分転換に他のことをしてみる、まず一旦休む、時間を置いてまた考えてみる…など、出来ること、考えられることはある。
何もしないより、なにかしら出来ることを考えてやってみる方が、絶対に良い。
仮に、そのことでうまくいかなかったとしても、他のことをやった時に絶対に生きてくるし、人間的に成長する。
少し話は変わるが、明治の文豪で、人生の達人と呼ばれた幸田露伴という人がいる。
その露伴の書いた「努力論」の最初にはこう記されている。
「努力には自ずから2つある。1つは直接の努力、2つ目は間接の努力…」
この間接の努力とは、ムダな努力、徒労に終わる努力のことを言うのだと僕は理解している。
一見、無駄に思える努力を一定量積み上げないと、物事はうまく進んでいかないということで、実際今までの経験上それは当たっていると思う。
1ステップを積み上げていく、という事に関しても一見無駄に思えることを続けていくしか次のステップを踏めない、という段階がある。
その無駄に思えることの一つ一つも、目の前の1を積み上げていくことだとすれば、やはり目の前の1を積み上げていくということが誰にとっても、どんな場合でも最善手であり、すべての悩みの答えはそこに集約されていると言える。
とまぁ、まだまだ僕の「説明力」が足りないために伝わりにくいかもしれないが、シンプルに、
「目の前の1を積み上げていくことが最も大事で、それ以外に道はなし!そして、誰でも目の前の1を積み上げることは出来るし(本当に誰でも)、続ければとんでもないところまで行かことが出来る」
ということをお伝えしたい。
以上!
隔絶された空間
隔絶された場所というのは、ある種オモシロイ文化が発現する条件となる。
ガラパゴス島には珍しい動植物が住んでいることは承知の通りだが、生活や文化としてもガラパゴス的な場所にはオモシロイものがある可能性が高いのだ。
例えば江戸時代までの日本である。
ただでさえ島国で隔絶されてるのに、さらに鎖国をしたもんだから、全く独自の文化が誕生した。
チョンマゲという謎のスタイルを取りながら、武士道という不文律を確立させ、中国やインドと全く違う仏教世界を作り上げたのだ(仏像の姿からして独自)。
こう考えると、ネットというもので繋がっている現代では、ガラパゴス化は起こりにくい。
そこで一つのアイデアだが、例えばネットを繋がらなくしたり、スマホを持たない生活をしてみてはどうだろう。
自ら「ガラパゴス」状態を作り出してみるのだ。
そして、生活をしている人でグループやコミュニティを作り、つながりを持つ。
すると何か違ったものが生まれるかもしれない。アート的な試みである。
実際、文明社会から離れ、今でも18世紀の暮らしを続けるアーミッシュと呼ばれる人がアメリカに住んでおり独自の世界を作っているし、オーストラリアでは環境の観点から自給自足を行うコミュニティなどが存在するらしい。
ネットやSNSなどの発達で「つながり過ぎ」じゃないかという論調が起きている昨今、あえてガラパゴス化を作り出すことが一種のトレンドになってくるかもしれない。
いや、もしかすると、すでに起きているのかも。
ユーチューバー 江田島TV
ユーチューバーの江田島TVという人がいる。
40歳くらいのオッサンで、投稿してる動画は一人でメシ食ったり、キャンプ行ったり、田んぼの整備したりと、趣味や生活を延々とアップしてる動画である。
若くてかわいい子がやるなら良いけど、オッサンである。
ところがドッコイ、チャンネル登録数は6万人超え、投稿された動画はしょーもないのも含めてすべて1万回〜10万回超えの再生数で、収入は年収1200万円だとか。
家で一人焼肉をしている動画の再生数も3万回超えで、なかなかのモノだ。
ユーチューバーで生活したいと考えている御仁には羨ましい限りだろう。
実は江田島塾長を知ったのは10年以上前である。
YouTubeが出てきたのは2005年くらいだったと思うが、江田島塾長はその頃からカラオケ動画を出したりしていて、ラルクが妙に上手いので友人が見つけてきて知ったのだ。
最近、久しぶりに江田島塾長はどうなってるんだろうと思い検索して、その成功ぶりにビックリしたところである。
思うに江田島氏は、ユーチューバーとして食おうなんてことを考えて動画投稿を始めたのではない。
単純に趣味でやってた感じであった。
その雰囲気があるので、今でもかなり素朴な動画になっており、インターネット創世記の頃の雰囲気が楽しめる動画になっている。
釣り動画、一人街ブラ動画、居酒屋一人飲み動画は結構オモシロく、金目当てじゃねーな的なところが貴重である。
江田島氏は過去にイヤガラセ(ネット叩き)にあったらしく、チャンネルなど閉鎖していたこともあったがまた復活した。
根っから動画投稿が「好き」なのだろう。
ネット文化に否定的な私であるが、江田島TVはアナログで素朴なモノを感じるので好きである。
個人の発信というのはこーでなくちゃいけねぇ。
↑江田島TVの釣り動画
行き着く先
ちょっと前に「〜の品格」というテーマが流行ったが、この所この言葉は聞かなくなった気がする。
例えば最近流行りのユーチューバーというやつに品格というものはあるのだろうか?
あるはずがない、というかインターネットの世界で品格なんていうものを聞いたことがない。
この「〜の品格」という言葉が出てきたのは、ITバブルの後くらいだったかなと記憶しているが、ネットというものが出てきて、あの頃は2ちゃんねるの掲示板とかであったが、グローバル化も相まってこれまでの日本社会が大事にしてきた「品格」という目に見えない不文律のようなものが失われてきている、という危機感が世論の中にあって生まれてきた言葉だったような気がしている。
10年一昔、などというが、品格などというのがない世の中というのが既にスタンダード化してきたなと感じている。
NHKにお笑い芸人が出て、数年前から紅白にアイドルや若手バンドが出て、訳のわからん演出も増え、これが紅白?変わったな、という印象を持ったが、これは品格がない世の中がスタンダード化してきたというのを象徴していると思う。
カッコ良く生きるとか、カッコ良いというのが意識されなくなってきたし、そもそもどういうことか分からないんだと思う。
そもそもカッコ良い、という感覚を持っていないし、普段の生活の中でそう感じるものに触れる機会が非常に減った。
YouTubeを見ていて、LINEを見ていて、テレビを見ていて、街を歩いていて、カッコ良いと感じるものに1日どれだけ出会えるだろうか?
ほとんど出会えないと思う。
フザけたもの、変なモノ、ヘラヘラしたもの、ウケを狙ったもの、そんなモノばかりではないだろうか?
「いやカッコ良いものはある」と思ったものの中でもオシャレなもの、映えるもの、アーティスティックなもの、という外見を着飾っているだけじゃなく本当に芯から、心の底から震えるほどカッコ良いものというものはどれだけあるだろうか?
時代のセンスというか感覚が、カッコ良いとか品格とか、そういうものを大事にしておらず、安い方向に流れていると強く感じる。
ただ本当にカッコ良いものとか人は今でもちゃんといるし、存在しているが、それに対してリスペクトがないし、カッコ良い部分、熱い部分より、親しみやすい部分だったりとか、どうしてもフザけた視点、軽い視点で取り上げてることがかなり多いと思う。
今の時代、一言で言うと平和ボケしている。
世の中が安全で豊かなものになり過ぎて、フワフワしたダメな人間が多くなってきている。
それが、カッコ良いという価値観よりも、フザけたもの、変なモノ、ヘラヘラしたもの、ラクなものを選ばせている。
インターネット、経済至上主義社会、便利さと合理性をどこまでも追求し続ける社会というのは、平和ボケを作り、確実に人間の精神を腐らせるような土壌を作っていく。
これは崩壊の前兆に他ならない、危険な兆候である。
その認識を持つことが大事だ。